京都 暑いのにレンタサイクルで
2015年 07月 18日
台風が来る前のある日、ボクは、京都の街を自転車で回った。
気温は35℃…。
特に用事はない。ただ、ある年の夏のことを思い出したからである。
今も京都には、時々行くことはある。
それでも、細やかに京都の街を半日かけ、吹き出すような汗をかき、自転車で回ったことは、その夏以来のことだ。
スタートはここから、八坂神社。 そのまま、知恩院へ。 そして南禅寺へ。 南禅寺には、水路閣という、琵琶湖疎水を引いた水路橋がある。 テレビの撮影では、このアングルも多いが、 一番奥からは、この眺めになる。 水路閣の上部は、今も疎水が流れている。
その昔、気が滅入った時、ここでよく寝転んでいた。 誰もいなかったので、寝転んで真上の眩しい太陽を見る。
休憩後、京都市美術館へ。 ルーヴル美術館展を観る。 フェルメールの「天文学者」が目玉絵画のようだ。
帰宅後、調べたところ、パリ(のルーヴル美術館)で一度観ていた。
ここの駐輪場から、比叡山が見える。 左側が比叡山。右側は如意ヶ岳。
拡大すると、大文字のそれがわかる。 五山の送り火のひとつ、「大文字」で有名だが、冬の雪が積もる日は、雪の大文字も見れる。
京都御苑へ。
木陰の中というのは、本当に涼しい。 初めて京都御苑を自転車で走ったのだが、小石や砂利がない通路が暗黙に出来ている。 交差点もある。 ボクは、結構こういう発想が好きである。
ついでに衣笠山まで足を延ばし「左大文字」も見ておいた。
さて、何故に京都へ行ったかというと、「予備校で夏期講習を受講している夢」を見たからである。
それだけの理由で、京都の街を、あえて自転車で走りたくなったのである。
かつて、ボクはこの京都で浪人生活をしていた。
「生徒の駿台、机の河合、講師の代ゼミ」とか言われていた時代である。
その予備校の講師は、劣等生である、ボクの稚拙な質問にも、わかりやすく答えてくれた。学生証番号もはっきり覚えている。
初めて見た五山送り火も、この校舎の屋上からである。
母校、駿台予備学校 京都校。 あれ、何かが違う。
隣の「ホテルニュー京都」の建物がなくなって、スーパーに変わっていた。
一度は泊まっておくべきであった。食事だけでもしておくべきであった。
当時のテキスト。今でも時々見る。
当時のボクは、ガムを噛みながら復習していたようである。包み紙が栞に使われていた。
また当時、2号館もあったのだが、現在はマンションに変わっている。堀川丸太町の北東部にある、パチンコ屋さんは3号館と揶揄していた。
がっかりしながら、昼食はここで。 本当は、その昔食べた、ハンバーグスパゲティというものを食べたかったのであるが、既に廃番メニューとなっていた。仕方なく「上」だけ。 営業時間を見てみると、17時迄とある。当時のお店の名前は忘れたが、店名も経営者も代わっているのかもしれない。
と言うのも、ボクが知っているこの店は、24時間営業で、学生が多く溜まっていた。
というのも、24時間営業という要因だけではなく、この店は、玄関を入って最奥まで通路があり、左にテーブル席が店の最奥部まで続き、右側は調理場となっているのだが、途中にトイレを挟み、壁があって、その奥がテーブル席になっている。つまり逆L字のようなテーブル席のレイアウトなのである。この店員から見えにくい席が、夜間に皆が集まるには、もってこいの席であり、「睡眠禁止」の張り紙があるにも関わらず、眠れる席でもあった。
この日は、その見えにくい席へ案内され、昼食となった。
浪人していたボクたちが、深夜、この場所で、ぼんやりとした、各人の将来を何度か語ったことを思い出す。
話を戻すが、駿台では、5月の連休くらいから、必ず毎月(夏期講習中は覚えていません)、何らかの模試があった。
実はボクは未だに、この浪人時代の夢をたまに見るのである。
突然、目が覚めて「模試だ!」とか。
この頃の、何人かの友人が住んでいた場所だ。
住所の看板は、昔のままのような気がする。 かつて、この周辺には、風呂トイレ全部共同のアパートや下宿があり、大学生や予備校の生徒が生活していたが、今回の訪問で、そのような賃貸住宅は、もう一軒も見つけることが出来なかった。
受験勉強以外、誰と何をしていたのか、段々と記憶から消えていく。
気温は35℃…。
特に用事はない。ただ、ある年の夏のことを思い出したからである。
今も京都には、時々行くことはある。
それでも、細やかに京都の街を半日かけ、吹き出すような汗をかき、自転車で回ったことは、その夏以来のことだ。
スタートはここから、八坂神社。
その昔、気が滅入った時、ここでよく寝転んでいた。
休憩後、京都市美術館へ。
帰宅後、調べたところ、パリ(のルーヴル美術館)で一度観ていた。
ここの駐輪場から、比叡山が見える。
拡大すると、大文字のそれがわかる。
京都御苑へ。
木陰の中というのは、本当に涼しい。
ついでに衣笠山まで足を延ばし「左大文字」も見ておいた。
さて、何故に京都へ行ったかというと、「予備校で夏期講習を受講している夢」を見たからである。
それだけの理由で、京都の街を、あえて自転車で走りたくなったのである。
かつて、ボクはこの京都で浪人生活をしていた。
「生徒の駿台、机の河合、講師の代ゼミ」とか言われていた時代である。
その予備校の講師は、劣等生である、ボクの稚拙な質問にも、わかりやすく答えてくれた。学生証番号もはっきり覚えている。
初めて見た五山送り火も、この校舎の屋上からである。
母校、駿台予備学校 京都校。
隣の「ホテルニュー京都」の建物がなくなって、スーパーに変わっていた。
当時のテキスト。今でも時々見る。
また当時、2号館もあったのだが、現在はマンションに変わっている。堀川丸太町の北東部にある、パチンコ屋さんは3号館と揶揄していた。
がっかりしながら、昼食はここで。
と言うのも、ボクが知っているこの店は、24時間営業で、学生が多く溜まっていた。
というのも、24時間営業という要因だけではなく、この店は、玄関を入って最奥まで通路があり、左にテーブル席が店の最奥部まで続き、右側は調理場となっているのだが、途中にトイレを挟み、壁があって、その奥がテーブル席になっている。つまり逆L字のようなテーブル席のレイアウトなのである。この店員から見えにくい席が、夜間に皆が集まるには、もってこいの席であり、「睡眠禁止」の張り紙があるにも関わらず、眠れる席でもあった。
この日は、その見えにくい席へ案内され、昼食となった。
浪人していたボクたちが、深夜、この場所で、ぼんやりとした、各人の将来を何度か語ったことを思い出す。
話を戻すが、駿台では、5月の連休くらいから、必ず毎月(夏期講習中は覚えていません)、何らかの模試があった。
実はボクは未だに、この浪人時代の夢をたまに見るのである。
突然、目が覚めて「模試だ!」とか。
この頃の、何人かの友人が住んでいた場所だ。
住所の看板は、昔のままのような気がする。
受験勉強以外、誰と何をしていたのか、段々と記憶から消えていく。
by kerorin0501
| 2015-07-18 08:18
| 街
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